再びオリュンポスの頂きへ

プルシェンコが語る復活までの道のり

エフゲニー・プルシェンコは、ロシアのメディアの取材に応じ、術後から五輪までの数ヶ月間のこと、歩行の練習から始めて何度もスケートをやめようと思ったこと、そして、五輪の王座に返り咲いたことなどについて語ってくれた=AP通信撮影

腰痛と手術
 私のソチ五輪は、腰椎の手術から始まりました。それは、私の競技生活そして人生における最大の難関でした。私は、再び歩くことそしてベッドから起き上がることを覚えました。麻酔もなかなか抜けず、とてもしんどかったです。その後、ようやく氷のうえに立ちましたが、プロではなく初心者のようで、一回転ジャンプを試みても感覚が甦りませんでした。正直なところ、あのときは、ソチでこんなことが起きるなんて思ってもみませんでした。

 手術を受けるまで腰痛がひどく、欧州選手権のときは最悪の状態でした(2013年1月、プルシェンコは、腰痛のためザグレブでの欧州選手権を棄権し、翌月、腰椎の手術を受けた ― 編集部註)。私は、行きたくありませんでした。足は重く背中は痛み、とても出場できないと感じていたのです。車に十分ほど揺られることもままならず、背中が利かないのでジャンプの踏み切りもできませんでした。さっぱり眠れず、どんな鎮痛剤も効かず、一日五回二十分ずつ熱い湯に浸かる温存療法に専念していました。

 友人たちは、世界でも三本の指に入るイスラエルの腰椎専門の医師ペカルスキーを知っていて、彼に診てもらうよう勧めてくれました。医師のもとへ向かったとき、私は、手術を受けることになるとは思っていませんでしたが、ペカルスキーに、腰椎を治すには外科手術しかないので競技を続けたいのなら手術が必要だと言われると、私は、すぐに「ダー(はい)」と肯きました。

 

術後の回復

 手術の十日後にようやく人心地がつくと、私は、起き上がり方を教わりました。急に起き上がると、椎間板、正確には、押さえねじで留めた代替品のポリマーが、外れてしまう惧れがあったのです。その後、リンクに立つ訓練を始めました…。

 痛みは、今もあり、この先ずっと続くでしょう。でも、五輪後に引退して、体調が回復したら、自分の学校を開いて、子供たちにスケートを教えたいです…。でも、団体戦のショートプログラム(SP)の前には熱い湯に三度ずつ、フリースケーティング(FS)の前には五回ずつ、また熱い湯に浸かっていました。


復帰第一戦
 リガへ行くと(2013年11月、プルシェンコは、リガでのボルボオープンカップで優勝した ― 編集部註)、体調が一日に何度も変わるのでした。こっちが痛くなったり、あっちが痛くなったり。それが、靱帯だったり、筋肉だったり、背中だったり…。私は、三回転ジャンプにすべて失敗し、これでお仕舞いと観念しました。こんな人体実験はもうごめんだと。でも、翌日には銀盤のうえですべての技をこなしている、つまり、まだ終わっていないのです。


ソチの後は?
  体調がいいときには、スケートを続けようかとも想います。次の五輪のときには35歳と若くはありませんが、それなりの実力が伴えば、とやかく言われることはないはずです。記録に挑戦してほしいですか? けれど、今日もジャンプのときに痛みが走りました。何でもなければいいのですが。2018年まではまだ時間があるので、とりあえずゆっくり休み、家族とともに過ごし、そのときになったら、みんなで様子を見てみましょう。

 
オリンピック団体戦

 ソチは、とても滑りやすかったです。会場の雰囲気や歓声や応援にも徐々に慣れて、音楽にも背中を押されました。たしかに、プログラムを簡単なものにしましたが、これは、戦術です。午前中の練習でチャンや羽生がフリーに出場しないことが分かったので、なにもリスクを冒すことはないと判断しました。必要なのは、メダルを獲り、勝負に勝ち、チームのリードを拡げることなので、私は、コーチと相談のうえ、そうすることにしたのです。

 
個人戦を控えて

 私は、二度のオリンピックチャンピオンで、二度のオリンピック銀メダリストであり、もちろん、これからソチ五輪の個人戦にも出場します。順位にはこだわりませんが、好いに越したことはありません。オリンピックは、自分がまだ闘えることを示してくれました。ですから、乞うご期待!

 

コメルサント紙ロシースカヤ・ガゼータ(ロシア新聞)の記事を参照。 

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